”あるだけの知恵をふりしぼり、あるだけのつてをたどり、あるだけの体験と情熱を注ぎこんでやっと出発点に立てるくらいのものなのだ、家づくりというのは。
そして、不思議なことにそれができるという男はまことにもって少ないのである。
うさぎ小屋とまで呼び捨てられている私たちの日本の住宅というのは、その生産も流通も、非常識な基礎の上に建てられ続けている。
すべてが砂上の楼閣であるといってもよい。
家という名の悪夢なのだ。そんな中で、なお敢然と家らしい家、その人間の生と共にある家を建てようとするには、それこそ常識という名の悪夢を振り切り、解体し、自分で調べ、自分で学び、自分で考えながら建ててゆくという方法だってとらなければならないのではないか。
たとえ、それが非常識な、世間体の悪いものに見えたとしても。”
山の手の高校に通っていたころ、よく住宅を見ていた。僕は裕福な層があまりいない地域に住んでいたから、たいていの家は工務店や良くてハウスメーカーがつくっていた。石山修武先生の言う、記憶に何も残らない、建材のショールームのようなショートケーキ住宅だ。でも自転車で45分かけて高級住宅街に近づくと、実家の近所にはない不思議な印象の家が目立つようになった。それは豪華だ、とか、大きい、というのではなく、シンプルで美しかったりした。今思うと、建築家が設計した家々なのだろう。ミース・ファン・デル・ローエがLess is More(より少ないことはより豊かである)という言葉を残しているけれど、当時15歳の感性に訴えていたのは、ある種の普遍性なのではないかと思う。
オランダのユトレヒトにある世界遺産、シュレーダー邸。この建物の説明は調べればいくらでも出てくるので省略するけれど、1924年に建てられているので、築100年近い。デザインの普遍性をこれほどわかりやすく表現したものはないのではないだろうか。
住宅の建築費のうち、材料費は3分の1で、残りは人件費だと聞く。僕も40歳を過ぎて、腰を落ち着ける住まいが欲しくなった。クルマが好きなので、組み込みの車庫があると良い。デザインは限りなくシンプルで、パッシブハウスなみに寒くない家。床はツーバイシックスの松板を並べてもいい。壁は白で間接照明。浴室はハーフユニット。予算はないので、程度の良い中古住宅を購入して、できないところをプロにお願いして、なるべく自分の手で住みながら改修したい。土間や間口のコンクリートも自分で打って、家という名の悪夢に挑みたいと思う。