衣食住について②
2020年3月に『衣食住について①』と題して書いたものの、その続きが一切なかったので、②を書こうと思う。
人間を45年以上もやっていると、さまざまなこだわりができませんか?
さらに物欲雑誌で成長した僕は、悲しいかな一定のモノに執着する。ないことが不安な戦中派に感覚が近いのかもしれない。
原理主義的な性向からか、自分でお金を出して何かを買うなら、定評のあるものを求める。例えばそれがクルマなら走る、曲がる、止まるといった自動車本来の能力が高いものとか、革靴ならソールはできればグッドイヤーウェルト製法とか、コートなら理想を言えばアナトミカのシングルラグラン、などといった具合だ。持っていないけれど。
食べ物はそれほど経験と思い入れがない。おいしい料理が好きで、美味しんぼの単行本を揃えていて、自分で料理もするけれど、食い道楽にはならなかった。古米でも文句はなく、出汁は2種類以上使った方がおいしいと思うけれど、別になくても良い。冷蔵庫の残り物で、誰かにおいしい、と言われる料理を作る能力はあると思う。
住まいに関すると、7年弱の北のまちでの生活を終え、この春、地元のまちに戻ってきたら、引っ越しシーズンでろくな部屋がなく苦労した。仕方なく、一軒家から1LDKのマンションに引っ越したものだから、狭すぎて寝起きさえ窮することになった。大半の荷物を実家に預けた。たまらず1ヶ月で別の2LDKに引っ越したが、そこは設備が古く、ユニットバスも清潔とは言い難く、湯船につかる気にもならない。住む場所でつまづき続けたあげく、今度こそはとストレスのない住みかを探すことにした。これまで長年家賃を払い続けてきたが、賃貸では古いユニットバスをどうにかしたいと思っても、取り換えるわけにはいかない。いよいよ賃貸生活に見切りを付ける頃合いだった。
3年半以上前、「程度の良い中古住宅を購入して、できないところをプロにお願いして、なるべく自分の手で住みながら改修したい。」などとブログにしたためていたが、そううまく見つからなかった。
いや、これまである建築家が設計した、理想的ともいえる中古物件に出会えた。本気で申し込もうかなと思った矢先、たまたまその物件の夜の周辺環境を見に行ったら、夫婦で心理的な抵抗を感じ、断念してしまった。ただ建築家が設計した家自体は、築20年以上経っていたが、建て替えたり、中途半端には改装できない、そのまま住み続けるべきオーラが漂っていた。吹き抜けの上のフリースペース、寒そうだが白を基調としすっきりとした在来工法の浴室、フィックス窓の隣に外気導入用の網戸付き木製扉、創意工夫のあるこだわりの建築だった。これはハウスメーカーや工務店には絶対に作れない。
そして紆余曲折の末、狭すぎて長年なかなか買い手が付かない駅近の古家付き土地を購入することになった。坪数は驚きの19坪。都内ではなく北海道の話だ。
ここは繁華街そばのJRの駅が近く便利なので、古家にそのまま住もうと2回も内覧させてもらった。2回目はリノベーション前提で建築家に同行してもらったが、基礎の弱さを指摘されるなどして、断念した土地でもある。価格も折り合いが付かなかった。そこで半年ほど寝かせていたら、過去に提示した価格近くまで下がったので、再度交渉、さらにかなりの額を値引いてもらい契約となった。つまりは大借金の上での建て替えを意味する。
狭い土地はハウスメーカーも工務店も見向きもしない。彼らの標準仕様では十分な広さを確保できないからだ。しかも施主が原理主義を発揮して、近代建築の5原則の何かを取り入れて、街並みにプラスになる意匠をなどと、面倒なことを言うのだから、請け負うところも限られる。なので、過去に同行してくれた建築家にお願いした。完成まで1年ほどかかるそうだが、どんな家になるのか、進捗はこちらでご報告したい。
九州旅行⑤日目(最終日) 福岡
福岡といえばガンダム?
細部が思い出せなくなるので、旅行記を書くならなるべく旅行から時間を空けない方が良いに決まっているのだけど、前回で力が尽きてしまった。たしか最終日は午後2時の飛行機で、午前中はららぽーと福岡の実物大(架空)ν(ニュー)ガンダムを拝みに行ったのだった。念のため説明するとνガンダムは1988年公開の映画「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」の主役機で、当時小学生の僕は弟と友人兄弟とそのお母上とで映画館へ観に行ったけど、難しくてTM NETWORKのエンディングテーマ以外、全然中身が理解できなかった記憶がある。
あの映画では、(閃光の)ハサウェイ・ノアのガールフレンド、クェス・パラヤがインドで修行したと主張する割には終始身勝手なまま退場していったので、あれ以来、インドで修行したり人生観が変わったなどとのたまう人物は、基本的に信用しないことにしている。実際、中学3年の時の担任とか、子どもを自宅の庭に埋めた父親とか、ろくな人間がいない。νガンダムはそんな(どんな?)記念碑的なガンダムといえるので、信者としては福岡へ行く以上は参拝すべきだろう。付き合わされる奥さんには悪いけど。ららぽーと福岡はJR博多駅から割と離れているので、博多駅のバスターミナルから西鉄バスの直行便に乗った。ちなみにバスでららぽーとのターミナルに着くと、ガンダムは背中しか見えない。
前に回って「おおお」、と一瞬思うけど、これまで写真で散々見てきたからか、それ以降の感動が薄い。歳を取るとなかなか現実が想像を超えてこないので困ったものだ。劇中のνガンダムはフィンファンネルを背負っているのが特徴だが、実物大で再現すると空気抵抗が大きく風に煽られて簡単に倒壊するのは素人でも分かる。なので福岡ガンダムはフィンファンネルの代わりにロングレンジフィンファンネルという名前のつっかえ棒が背中に付いていた。これなら両足と3本で基礎に固定できるので安定するわけだ。結局参拝時間は2分ほど。3枚写真を撮って、ららぽーと内にあるガンプラオタク向けのバンダイ直営店へ行く。奥さんにお願いし、1人1つ限定のロングレンジフィンファンネルが付いたガンプラを2つ購入する。1つは転売・・・ではなく弟へのお土産(代理購入)だ。
4泊5日、レンタカー移動距離約1000キロの九州弾丸ツアーだったが、当初予定していた熊本県のハンセン病国立療養所菊池恵楓園と西南戦争激戦地の田原坂再訪は叶わなかったので、また次回の目的地としたい。
九州旅行④日目(弐)長崎→佐賀→福岡
本来の長崎観光へ
軍艦島に上陸した後、常盤港に戻ってくると午後1時を過ぎていた。長崎で一般的に有名な見学地といえば、マニア向けの軍艦島ではなく、キリシタンや出島や被爆地の関連施設だろう。歴史に興味ある人なら常識かもしれないが、坂本龍馬の亀山社中結成の地でもある。つまり、見どころが山ほどあるということだ。しかも三大中華街の長崎新地中華街もできれば行きたい。そして、この日の宿は福岡で、その前にTSUTAYAが指定管理で有名になった佐賀県の武雄市図書館も予定に組んでいた。となるとリミットは午後4時。まるでオリエンテーリング競技のようにチェックポイントをダッシュで駆け回るようなスケジュールになる。今回の旅行は最初からこんな感じだけど。
長崎市の長崎水辺の森公園ではちょうどこの日、10月27日から西九州新幹線の開業を記念したイベント、「長崎ベイサイドフェスティバル」が始まり、日本最大級の帆船「日本丸」と「海王丸」が寄港していた。そういえば、軍艦島へ行く途中、船ですれ違っていた。日本丸といえば、母方の祖父が生前、僕に作ってほしいと模型を購入した思い出の船だ。しかし、結局、作り方が分からず未完成のまま、どこかへ行ってしまった。
このあと、車に乗って亀山社中記念館を探すが、ナビはミスリードするは、車では行けないわで、120メートルぐらいまで近づくも結局たどり着けなかった。旅行は入念な下調べが物を言う。次回までの宿題だ。続いて、原爆資料館へ向かう。
浦上天主堂は爆心地から北東へ約500メートルの地点にあり、原爆が落とされた後、天主堂の壁の一部だけが残ったという。現在は同じ場所に建て替えられた浦上教会があり、当時の壁の一部は平和公園内に残されている。原爆資料館を15分ほど見学した段階で午後4時になり、一路武雄市へ。長崎は軍艦島を除き、泊してゆっくりまわるべき場所だと思った。
6・佐賀県
高速に乗って長崎市から約1時間で佐賀県武雄市に到着。結構近い。
午後7時のレンタカー返却時間が迫っていたので、博多駅へ向かう。レンタカー会社そばでガソリンを満タンにし時間内にギリギリ到着。特に何か言われることもなかった。そして博多駅から徒歩5分ほどの温泉ホテル、八百治博多ホテルへスーツケースをガラガラ言わせて移動する。1998年にオープンというので、割と新しいホテルかと思いきや昭和感が漂う。24年も経っているのだから当たり前か。
さて、荷物も置いたので、博多の夜を満喫しようと博多駅から地下鉄に乗り、天神の屋台へ出向くが、すでにどこも満席だった。有名なフレンチ屋台の「レミさんち」も目の前にあったが、もちろん満席。仕方がないので、有名な屋台「おかもと」の系列、中洲川端店へ。混雑しておらず一安心。店内はおびただしい数の有名人のサイン色紙で埋め尽くされていて、繁盛店を物語っている。「北海道から来たので、福岡らしいメニューを」と店員さんに相談したら、その店員さんも北海道の出身で、しかも同じ旭川だという。福岡でまさかの旭川地元トーク。昔、銀座の楽器店で石狩ローカルネタで盛り上がったことを思い出した。名物の焼きラーメンに舌鼓を打つ一方、から揚げはおいしいけれど北海道と変わらなかった。さらに博多駅KITTEの地下で、食べ損ねたもつ鍋を胃に押し込み、ホテルへ戻る。屋台と中州はまたの楽しみに取っておこうと思う。
九州の旅④日目(壱)・長崎・端島
端島(軍艦島)へ
釧路コールマインの採炭現場まで足を運んだ炭坑好き、金属鉱山好きとしては、端島や池島は外せない場所だ。15年前に九州を回ったときに、もちろん端島にも行きたかったが、日程などの理由で長崎までは足を伸ばせなかった。しかし、行けない間に端島は世界文化遺産に登録され、多くの観光客が訪れる場所になっていた。その分漁船をチャーターするより、遥かに安く安全に上陸できるので、怖がる奥さんを説得して軍艦島コンシェルジュの午前の便を予約した。
常磐港でこれから乗る船、ジュピターを見つけても、そのそばの待合所では受け付けできないので注意が必要だ。ジュピター前から歩いて5分ほど、国道挟んで斜め向かい、ガソリンスタンド奥にあるビルが受付場所となる。予めスマホの画面に表示した二次元バーコードでチェックインする。予約時には席がなく、スタンダード(僕)とスーパープレミアム(奥さん)で予約したが、相談するとスタンダード2人に変更してくれ、差額を返還してくれた。なかなか親切な対応で喜ぶ。
酔い止めのトローチをなめつつ乗り込んだ船内では、ガイドの浜口先生が端島だけでなく、途中の世界遺産の造船ドックや女神橋などを解説してくれる。
長崎港から南西へ17.5km、およそ30分で端島が見えてきた。
端島では、長崎市の条例で波の高さが50センチを超えると桟橋が使用できず、ここ2ヶ月半で5回しか上陸できていないという。船の中で、浜口先生が「きょうはラッキーです。上陸できますよ」と笑顔。船は端島を周遊した後、桟橋に横付けした。
上陸できたのは良かったが、見学場所は島の南東の炭坑施設部分のみで、病院や学校、アパート群は近づくことができない。
明治時代に造られた石積みの護岸。この部分が世界遺産だという
九州の旅③日目(参)・長崎
5・長崎県
午後4時40分に熊本港を出向したオーシャンアローは、30分後の午後5時10分に長崎県の島原港に到着した。島原は歴史的には隠れキリシタンの地として有名だが、1990年に噴火した雲仙岳の被災地として記憶に新しい。港から車で15分ほどの「定点」と呼ばれる撮影ポイントでは、1991年6月3日午後4時8分に火砕流が発生し、付近にいた新聞やテレビの記者やカメラマン、タクシー運転手ら15人が亡くなった。
日没まで間もないため、心の中で手を合わせながらきょうの宿泊地、長崎市へ向かう。
島原市から長崎市までは、雲仙グリーンロードという有料道路と国道251号を経由して63キロの行程だが、帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれ、やっとの思いで午後7時ごろグローバルビュー長崎に到着した。駐車場の入り口がわからず、ホテル正面の車止めにレンタカーを停めチェックイン、晩飯と稲佐山の夜景散策に繰り出す。夜景の有名な稲佐山頂展望台には、評判の良いフレンチレストランITADAKIがある。現金決済不可、アプリで事前予約必要とあったので、事前にスマホにアプリをインストールした。予約に余裕はあったが、時間枠が午後7時半までしかなく、結局予約を断念。それ以外リサーチしていなかったので、晩飯探しに難儀する。繁華街がホテルからどの程度の距離なのか分からないわ、夜で町並みはよく見えないわ、車ではすぐに通り過ぎてしまうわで、やっとのことで車を停めて居酒屋に入った。
居酒屋で会計する際、店員さんにこれから稲佐山に夜景を見に行くと告げると、反対側の夜景がおすすめと言われた。鍋冠山は魅力的だったが、迷うのも嫌なのでオーソドックスに稲佐山へ向かう。観光客が札幌で旭山ではなく、藻岩山に上るのと同じだ。
稲佐山は中腹の駐車場からロープウェイではなく、スロープカーに乗る。デザインはあの自動車デザインの頂点、ピニンファリーナのデザインディレクターだったケン・オクヤマだというので、内心ワクワクしていた。料金は往復500円。ロープウェイが1250円なのでかなり安い。
木の幹をイメージした白い支柱。木目は明るめに限る
スロープカーの山頂駅から展望台まで徒歩2分ほど。そこから展望台の4階屋上まで登る体力は40代半ば過ぎの夫婦にはすでになく、目の前のエレベーターに頼る。稲佐山の標高は333メートルでどこかのタワーと同じ高さだが、そこから見る夜景は札幌、神戸と何とか3大夜景と称されている。浦上川から長崎港、女神大橋と続く長崎の夜景は閉じた港街ならではの美しさがあった。
ホテルへ戻って、建物内にあるファミマへ夜食というか晩酌の買い出しに行く。そして霧島温泉で調達した芋焼酎を飲むため、ホテルのルームサービスで氷と、部屋着が見当たらないのでバスローブを頼む。バスローブとコンビニ飯が、今回のカオスな旅を象徴している。その後、バスローブを引き出しの中に見つける。あすはいよいよ軍艦島だ。
九州旅行③日目(弐)熊本県水俣市
・四大公害病
小学校の社会科で習う、四大公害病。水俣病、阿賀野川水銀中毒(新潟水俣病)、四日市ぜんそく、イタイイタイ病の4つは、誰もが知っている。このほかに公害認定されていない北九州市のカネミ油症事件などもあるが、共通点は様々な理由で、企業の経済活動の前に個人の健康が軽視された、ということだろう。
水俣市には不知火海に面して芝生の広場やバラ園、テニスコートなどが並ぶ広大な公園、エコパーク水俣があり、その一角に水俣病資料館がある。エコパークは、未処理の有機水銀(メチル水銀)を含んだ汚泥を埋め立てて造成しているため、地震で液状化現象が起きると、有機水銀が地表に吹き出す恐れがあるという。水俣病発生の構造的な欠陥は今もなお続いている。
水俣病はメチル水銀化合物に汚染された水俣湾の魚介類を長期間、大量に摂取したことで発症した中毒性中枢神経系疾患をいう。新日本窒素(チッソ)水俣工場が、製造過程で発生したメチル水銀化合物を未処理のまま海に放出した結果、魚介類が汚染され、それを食べた近くの住民が発病した。
資料館の説明パネルで一際目を引いた表現が、上の写真。水俣はチッソの企業城下町で、住民の生活の糧でもあった。それはよく分かる。チッソが「戦争に役立つ」、「私たちの暮らしを支える多くの商品の原料を作っています」というのもよく分かる。でも「チッソの技術や原料から作られるものをなくしたら、私たちは、今の生活を続けていくことができるでしょうか?」との問いには猛烈な違和感があった。私たちが便利な生活を続けるためには、健康被害は仕方ないということだろうか。
なんとなく違和感を抱いたまま水俣を後にし、熊本市内へ戻る。まだ色々と県内で寄りたいところはあったが、フェリーの時間が迫っていたので、断念する。
熊本市内中心部から西区新港のフェリーターミナルは結構距離があるので、ギリギリの日程の方はお気をつけください、と何度か書いた気がするが僕ぐらいかもしれない。フェリーは出港後およそ30分で、長崎県の島原港へ着くという。予約もバッチリで、後は乗船のみ。
九州の旅③日目(壱)・鹿児島→熊本→長崎
○霧島神宮→道の駅霧島→伊佐市
すっかり撮るのを忘れたが、霧島観光ホテルの朝食バイキングも充実していた。さつま揚げのさつまは薩摩のことだと今さらながら思い出し、とりめしではない鶏飯(けいはん)を初めて知る。鶏飯は、ご飯の上に、鶏肉のささみや錦糸卵やしいたけを載せ、ねぎと紅生姜と刻み海苔を散らし、鶏だしのスープをかけて食べる。全国どこでも手に入る食材だが、40代半ばで食事で感動するとは、まだまだ人生捨てたものではないと思った。きょうのお宿は長崎市内なので、早々に宿を発つことにする。桜島の見えるところを教えてもらい、道の駅霧島へ向かう。
続いてきのう夜に見た朱塗りの鳥居へ。
霧島神宮は、「天照大神の孫の天孫として、高天原から日向(九州の南部)に降り、皇室の祖先になったとされている神」(コトバンクより)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る。坂本龍馬が1866年(慶応2年)旧暦の3月、お龍と新婚旅行に訪れたということを、境内に入って初めて知る。妻は司馬遼太郎の著作を読み、京都も訪ねているが、霧島神宮はノーマークだったらしい。
霧島神宮には古くから九面信仰があり、「工面がいい」などと商工業者から縁起物ともてはやされている。2021年には巫女さん考案の「九面」をモチーフにしたキャラクター「九面どん」が登場。知名度がネックだが、九州はくまモンだけではないことをアピールする。
九面どん
— 霧島神宮 / KIRISHIMAJINGU (@kirishimajingu_) 2021年5月7日
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続いて、霧島観光ホテル方向へ戻り、伊佐、水俣方向へ
霧島温泉から県道53号を伊佐市方向へ北上すると、伊佐市菱刈南浦付近の県道左側の田んぼに小さな古墳状の丘が見える。本州では集落とか農家の土地に墓地が点在するが、こういう形式の墓地(のようなもの)は見たことがないので、九州に来たと実感する。
www.google.comちなみに菱刈というのは、同地を納めていた菱刈氏にちなんでいて、日本で唯一の金鉱山、菱刈鉱山(住友金属鉱山)が近くにあったりする。
レンタカーを借りて、見知らぬ土地を巡るには、なるべく高速は使わないほうがいい。今回は弾丸ツアーなので仕方がないが、次はこうした発見を楽しむためにも余裕のある日程を組みたいと思う。
それにしても九州はすごい。西南戦争の古戦場跡とか関所跡などの名所旧跡が、そこかしこの看板にさりげなく書かれていたりするので、「何?今の見た?」などといって引き返すことしばしばだった。重ねた歴史の重みが北海道とは比較にならず、いちいち拾っていると目的地にたどり着けない。
とはいえ、伊佐市は熊本県との県境で水俣市の隣。目的地はすぐそこだった。